"人との出会い”

こんにちは。

sorairorain です。

 

今日は私の”人との出会い”に対する考え方を少し。

 

数日前に体調を崩し、3日ほど熱に苦しみ、水と薬と少しの冷凍フルーツで生き延びておりました。(笑)

ピーク時には39℃を超え、日本でもこんな高熱は滅多に出さない私は心身ともに参っていました。

39℃を超えフラフラの状態で頭を冷やすためのタオルを濡らしているとき、

”1人で生きていくってこういうことか”と考えるほどには追い込まれていました。

気軽に差し入れを頼めるほどの友達も、そばにいて看病してくれる彼氏もいないカナダで1人体調を崩すことは、身体的なダメージはもちろん精神的なダメージもかなり大きいものでした。

こんな時に限って彼氏からは丸1日連絡が返ってこず、1番の熱のピーク時は心細すぎて耐えられませんでした。

動くこともろくにできず、たまに水分補給とトイレのために何とか起き上がる以外の時間は寝ては泣いての繰り返しでした(笑)

日本はちょうどGW真っ只中、これから社会人として本格的に忙しくなる彼にとってゆっくりできる最後の連休です。

少し回復した今ならそれを理解し、不安に思うことなく過ごせますが、熱で苦しんでいた時の自分には耐え難いことでした。

しかし「あと10ヶ月は会えない中、彼との関係を悪くしたくない。」

「難しいことだけど信じることが1番大事。」

そう自分に言い聞かせわがままを言うのを我慢しました(偉い!笑)。

 

そんな風に苦しんでいると、語学学校で出会った友達が

「大丈夫?いるものあったら持っていくよ。」

と言ってくれ、あまりにも動けなかった私は甘えることに…

学校帰りにスーパーに寄ってアイス、リンゴジュース、缶詰のミカンなどお願いしたもの以上にいろいろ持ってきてくれました。

その時の感動と言ったらもう…(笑)

私よりも年上でいつも優しくしてくれるお姉さん的存在なのですが、出会って1ヶ月のクラスメイトにここまでできる素敵な人に出会えて幸せだなと思いました。

 

カナダでの出会いだけではありません。

日本にいる両親、従姉妹、友達、先生方、そして彼氏。

私はたくさんの人との”出会い”に何度救われたかわかりません。

そしてそれは日本にいたときだけでなく、カナダにいて、直接は会えない今も同じです。

私はこちらに来てからもずっと、大好きなみんなに支えられています。

ホームシックになったとき、頑張りすぎて疲れてしまったとき、今回のように体調を崩してしまったとき。

電話で話したり、SNSで繋がったり、もらった手紙を読み返したり。

辛くなるたびに手紙を読み返しては号泣し、すっきりしてまた少し頑張るのがお決まりになってきたほどです(笑)

 

今、私が1人カナダで頑張れるのも、少しづつですが強くなりつつあるのも、すべて私を支えてくれている人との”出会い”がきっかけでした。

今の人間関係がなければ私は100%カナダに来ることはありませんでした。

それどころか、今この世に存在しなかったかもしれません。

ずっと自分は孤独だと思って生きてきましたが、実はそんなことはありませんでした。

自分のことをちゃんと見てくれていて、気にかけてくれている人はいます。

出会っていても気づいていないのか、それともまだ出会っていないのか。

私は人生のどん底にいた時、両者でした(笑)

気付かないフリをしていたのかもしれません。

傷つくのが怖かったから。

でも私は気づくことができず苦しかったあの時間も、今の自分になるために必要だったのだと思います。

こんなの今だから思えることですが(笑)

 

今、

孤独だ

誰もわかってくれない

と苦しんでいる人へ。

大丈夫です。いつか必ず、”光”に出会えます。

それが3年前だったのか、明日なのか、10年後なのか。

それは誰にもわかりませんが、必ず出会えます。

こんなありきたりな綺麗事などもううんざりかもしれません。

「今まで何度もそれを願い、待ち続けてきたが出会えることはなかった。」

「いい加減なことを言うな。」

そう思うかもしれません。

私もそう思っていました。

それでも私は伝えたかった。

いつか出会ったときに、諦めすぎて気付けなくなってほしくないから。

 

誰にでも”光”に出会える可能性はあるのだということを、

今苦しんでいるあなたが、どうか忘れないでいられますように。

 

 暗めの話を失礼しました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

sorairorain*

”今”を見つめる

こんにちは。

sorairorain です。

今日も思ったことをゆるーく書いていこうと思います。

 

私は大学を1年間休学してカナダに来ています。

幼い頃から英語に触れていた私にとって、留学は長年の夢でした。

しかし金銭面も含め現実的なことを考えたとき、自分にはそんな余裕はないのだと大学入学を機に一度は諦めました。

それでも外の世界に触れ、自分の視野を広げたいという思いは変わることはなく、このまま後悔し続けたくないと留学を決めました。

こんなわがままを聞いてくれた両親には本当に感謝しています。

 

期待と不安を胸いっぱいにつめてやってきたバンクーバー、覚悟はしていましたが、

それ以上に辛いことが多すぎて、最初の1ヶ月はほとんど毎日泣いていました。

何があったわけでもなく、自然と泣けてくるという感じでした。

日常生活に支障が出るほど使い物にならない自分の英語力に絶望し、あまりにも日本と違いすぎるカナダの習慣についていけずとても生き辛かったです。

バンクーバーはとてもいい街で、ホストファミリーにも恵まれ、念願の留学生活がスタートしたというのに、どうしても馴染めない。

加えて日本に彼氏を残してきたということもあり、私のホームシックは相当なものでした。

毎日帰国まであと何日だ、とカウントダウンしていたほどです(笑)

 

しかし1ヶ月経ってホームステイ先からシェアハウスに移ってしばらくしたある日、あることに気付きました。

それは朝いつものようにバス停までの道のりを歩いていた時のことです。

バス停までの道は坂になっているのですが、ふと顔をあげて驚きました。

 

「この道はこんなに長かったのか。」

 

それまでは自分の足元を見ながら黙々と歩いていたため、坂道を歩いているという感覚はありましたが、自分がどのくらいの距離を歩いているのかについて気にしたことがありませんでした。

しかし道のりの長さに気付いてしまった途端にそれまでは何とも思っていなかったバス停までの徒歩移動が急に辛くなったのです。

そこで私は思いました。

「留学も同じことなのではないか」と。

最終地点、すなわち1年後の帰国のことばかり考えているから今がしんどいのだ、ということにここで初めて気づきました。(遅いですね(笑))

きっと今目の前にあることを一生懸命にやっていれば、きっと1年などあっという間なのです。

そこでやっと自分が「今、ここで、何をしたいのか」についてじっくり考えることができ、この1年の目標がはっきりしました。

そのおかげで今は入国当初よりもはるかに充実した生活を送れています(英語やカナダでの生活に慣れてきたというのももちろんあるとは思いますが)。

 

さて、今日のこの記事の中で私が何を言いたかったのか。

それは「なんとなく疲れてしまったときは、自分の目の前のもの、”今”自分がしたいことに焦点を当てるだけで少し楽になれることもある」、ということです。

 

今や日本では人は平均すると80年も生きることができます。

長く生きられるということは客観的に見ると幸せなことで、終わってみるとあっという間なのかもしれません。

しかし、人生の途中で辛いことに出会ってしまったとき、きっとこの80年はあまりにも長すぎるものに思えてしまうでしょう。

今すぐ自分の人生を終わらせてしまいたいと思うこともあるかもしれません。

誰しもが思うことではないですが、私は自分の人生を終わらせてしまうことを考えたこともあります(留学中ではありませんが)。

そんな時、残された長い長い時間に囚われて絶望するのではなく、”今”を見つめて、今を生きている自分に少しだけ優しくできたなら。

もしかするとほんの少し、楽になれるのかもしれません。

 

もしあなたが今が苦しい、生き辛い状況におかれているのだとしたら。

あなたが”今、ここでちゃんと生きている自分”に寄り添ってあげられることを願っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

sorairorain*

”普通”とは何か

こんにちは。

sorairorain です。

今日はバスに乗っているときにふと考えたことについて少し書いてみようと思います。

 

私はお世辞にも恵まれた環境で育ったとは言えません。

そのせいかいろんなものを抱えてしまい、一般的に見て”普通”ではない人生でした。

何年もずっと「普通になりたい、普通の家庭に生まれたかった。」と思い続け、自分の生まれた環境を恨んだこともありました。

 

ですがこちらに来てふと思うのです。

「”普通”とはいったい何なのだろう」と。

 

私たちは普段たくさんの”普通”と”当たり前”の中で生活しています。

公共の場で騒がないのは”当たり前”。

公共交通機関がダイヤ通りに運行されるのは”当たり前”。

公共の場で幼い子供が騒げばその親をしつけが出来ていないと白い目で見る人もいれば、

電車が人身事故で遅れるようなことがあれば何の責任もない駅員に対して怒りをぶつける人もいる。

電車で騒がないということも、公共交通機関が時間通りに運行されることも、私たちにとっては”ごく普通”であり、”当たり前”のことだからです。

しかし、その”当たり前”は所詮”日本の”当たり前でしかありません。

一歩外に出てしまえば、日本の常識など通用しないのです。

 

私の住むバンクーバーでは、バスの時刻表は本当に当てになりません。

通学にバスを利用している私にとって、朝のバスに間に合うかどうかは遅刻するか否か私の運命を握っていると言っても過言ではないのですが(笑)

いくら余裕をもって家を出ても、間に合わないときは間に合いません。

そもそもバスが来ないのです。

時間通りに来ないのがむしろ”当たり前”で、乗客は遅れたことに対して文句は言わないし、

むしろほとんどの人が降りる際に「Thank you!」と言って降りていきます。

バスで子供が騒げば「元気良くていいねぇ!」から会話が始まります。

 

もちろん全ての日本人、全てのカナディアンがそうであるとは言いません。

しかし、”普通”は所詮自分にとっての”普通”でしかないのです。

生まれた環境や育ってきた文化によって全く異なるものなのです。

頭ではわかっていましたが、カナダに来てその事実を実感した今、改めて思うのです。

「自分が自身の生い立ちを恨んでまで羨んだ”普通”とはいったい何なのだろう」と。

 

外の世界を知るまでは”当たり前”だったはずの自分の境遇が、自分の周りの”普通”とは違うのだと知った時から、私の世界はとても生き辛いものになりました。

しかし”普通”という概念は人によって異なるという”当たり前”に気付くことができた今、

少しではありますが、生きやすくなったような気がします。

 

”当たり前”とは、本来その人自身にしかない概念なのだと私は思います。

”周りと同じ”が好まれる日本では人とは違う”当たり前”を持つことは時に生きにくい状況を生み出してしまうかもしれません。

ですが”当たり前”もまたその人の個性の一つなのではないでしょうか。

”当たり前”を”個性”であると思える人が増えることがマイノリティも含めた多くの人が住みやすい世の中になっていくきっかけになるのかもしれないと私は思います。

 

”全ての人にとって住みやすい世の中”。

そんなおとぎ話のような世界など存在しないとは思います。

が、「自分は普通じゃない」。

私のようにそういう思いに押しつぶされそうな人が少しでも違った視点から「”普通”とは何か」を考えるきっかけになれば。

そんな思いでこの記事を書きました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

sorairorain*

はじめまして^^

はじめまして。

sorairorain と申します。

 

日本のとある港町に生まれましたが

今は Canada Vancouver にて生活しております。

とはいってもワーキングホリデーなのですぐに日本に戻るのですが…

 

1年間のカナダでのワーホリ生活の中で

見たもの、感じたこと、そして考えたこと。

日本にいるままでは綴ることはできなかったであろう言葉たちを残すことができたら、

と思いこのブログを開設しました。

 

自由気ままに更新します。

よろしくお願いいたします。

 

 

sorairorain*